第70章 AIは自分の職を奪うか (後半)

70.4 悲観論もあれば楽観論もある

職域へAIが参入してくることについては、見方によって光にも陰にもなる事例は多い。一般にAIの導入によって、人材が不要になるのではという話題については、当たり前のことかもしれないが、その職業に十分な人材が従事している場合はペシミズム(悲観論)として取り扱われ、人材不足に悩んでいる場合は救世主のような期待を込めて受け取られる。さらに一歩進んで、AIの普及によって新たな需要が急増する、あるいは新たに関連産業が生まれると期待されると言う具合に、かなりポジティブに紹介されることもある。

例えば、「AIが過去の不正請求の事例と照合し、不正の疑いがある場合に保険金の支払い担当者に警告する。従来は全て担当者がそれを調べる必要があった。」という記述の後に、これによって担当者の数は半減できるので、それだけ職を失う人が出るという解説がつけばペシミズムになり得る。一方、これによってコストが下がるのみでなく、人の目で気づきにくい不正すらあぶり出す効果が期待でき、業界にとっても、利用者にとっても朗報であるという解説がくればオプティミズムに結びつく。

このように同じ状況に対して、悲観的に捉えるか楽観的に捉えるかの違いは、同じ立場にあっても個人差が生まれてくる。

例えば、「AIが契約書の条項を読み込み、契約内容が利用者にとって有利か不利かなどを判定し、修正案も提示するサービスが出てきた」という記事について考えて見よう。同じ立場にあっても、ある人はこうなると法曹界の人材の需要が減ってくるのであろうから、いずれ自分も現在の仕事を失うではなかろうかというペシミズムとなっていく。他方、それゆえこれまで多くの時間がかかっていたのを大きく減らし、その分スムーズに顧客に提供できるようになるぞと、期待する向きもいるであろう。弁護士はもっと複雑な業務に時間を割けられるようになり、自分の力を発揮できる機会が増えて、結果サービスレベルを上げることができると積極的に見るオプティミズム(楽観論)になる人もいる。このように、どちらに転ぶかは、自己研鑽の多寡によるところが大きいのかも知れない。

将棋の世界で考える

本ブログの「第10章 将棋界のAI (後半)」の「10.6 将棋界から学ぶ人間とAIの関係」の中の「推察項目その3:AIの普及はどのような変化をもたらすか」に、次のような解説がある。

将棋界はAIが人間の能力を超えるという事象が起きた最も早い分野の一つである。ここでは「人間が勝つか機械が勝つか」に関心が寄せられる時代は終わったと言える。しかもAIに負けてもプロ棋士は失業するということが起こるどころか、新しい将棋ブームを引き起こした。これは、「AIが人間を越す」という当初設定された目標とは異なる変化をもたらしたと言える。これは経済的あるいは社会的な変化ということができる。

中には「将棋界でAIを利用するになったせいで、俺は失業した」と、嘆く人もいるかも知れないが、それは極例外的な存在であり、世間も「そんな、AI活用の努力を怠った人が悪い」と考える人が多いであろう。ほとんどの人は多かれ少なかれ、新しい将棋ブームを楽しんでいるだろうし、棋士にとっても新たな挑戦の道が見えてきたと奮い立つ人が多いと思われる。

このように将棋界では、AIの導入が圧倒的にポジティブに捉えられていると言えるが、今後、この様な様々なパターンの事象が別の業界で起きても、なにも不思議はないであろう。

医療機関の場合

 では、御曽崎が「AIが職を奪う可能性」について考えるきっかけとなった歯科医院についてはどうだろうか。「AI歯医者」を導入した医療機関を対象としたある調査では、導入により患者の成約率が10%以上も上がり、さらに医師や患者間のコミュニケーションがよりスムーズになったという報告がある。これはAIの導入によって医師の診察と治療の水準が向上したためと考えられる。このようなAIの導入が広がれば、歯科医院の運営の標準化が可能となり、歯科医院の規模拡大につながるとさえも期待されている。

 歯科医院に限らず一般に医療関係では、医療関係者のみならず患者にとってもAIの光の部分を示す例は多い。例えば、製薬会社においては、AIを活用して研究開発費を削減し、創薬にかかる時間を短縮することができたという話がある。これによって、これまでは治療できなかった病気に対処することさえもできるようになってきたというニュースなどを見ると、光の部分はかなり明るいと言えよう。

そのほか、コンピュータ断層撮影装置(CT)を用いる場合に、AI技術を利用することにより、診断にかかる時間や負担を少なくでき、その分ほかの医療行為に集中できるようになったといった例もある。これはCTを利用する際、X線量を少なくすると画像にノイズが増えてくるのだが、ディープラーニングを活用してノイズだけを除去できるようになるためだそうだ。これによって診断時の被ばく線量を少なくしたり、造影剤を少なくしたりできるようになるので、患者にとっても有り難い話である。

一般論としての楽観論も

一般に多くの職業はたくさんの業務やプロセスから成立っている。そのためその中で、二つや三つの業務やプロセスがAIに置き換わられたとしても、全体を置き替えることは難しいことは容易に想像できる。むしろ、二つか三つをAIに代行してもらうことにより、人間は他の業務やプロセスにより集中できるようになり、先の医療機関の例に見られるように、効率や質が上がることも多い。

現在開発されているAIは全て「弱いAI」と言われる、ある限られた領域だけが得意なものであるのに対して、人間が行っている頭脳的作業は多岐にわたり、それらを全てカバーするだけの万能AIはまだ開発されていない。

もっとももし、そのような万能AIが開発されたならば状況は激変するかも知れない。しかしながら、それが開発されるか否かは、意見の分かれるところである。否定的に考える人は、そのようなAIを開発するには、技術的な課題が多すぎる上、需要の大きさ、AIによって機械化されるメリットの大きさ、複数のAIを組み合わせる複雑さなどの点で、経済的に合わない可能性も高いと指摘する。

70.5 産業地図の塗り替え 

 {ブログの中のナビゲタ}こうしてみると、個々人にとって職を失うということは大変大きな問題ではありますが、あまり心配することはないという楽観論にも、うなずけるところがあるように思えますね。でも、産業全体としてはどうなのでしょうか。次にそこら辺のことを考えてみましょう。

個々の職業ではなく、もう少し広い視野から産業全体を俯瞰すると、AIの普及は産業地図を塗り替えてしまう可能性を否定できない。この産業地図の塗り替えについても、悲観論も楽観論も湧き上がってくる。

悲観論の中には、AIに取って代わられると、匠の技が後継者に伝承されなくなり産業連鎖が切れてしまい伝統的な産業が衰退してしまう、あるいは産業地図の塗り替えにより人間の能力に偏りが生じてくるといったようなものがある。

それに対して、マクロ経済的な楽観論、あるいは期待論としてまず上げられるのは、AIによる産業地図の塗り替えが、今日日本の産業全体が直面している労働力不足の問題を和らげるという面である。少子高齢化によって、日々労働力不足の問題が深刻化してきている我が国にとって、これは総論としては明らかに朗報と言えるであろう。雇用喪失より労働人口の減少の方が重大という問題を抱えた日本の状況は、こうした産業地図の塗り替えを期待している面もある。このようにAIに関わる新技術というシーズが塗り替えを牽引するだけではなく、ニーズからその塗り替えの圧力がかかっているとも言える。

AIに奪われる職業があっても、AIに置き換えることが難しいプロセスや業務が多い職業へ労働人口が移動する、という点も期待論を後押しする。これまでにも自動化、機械化によって奪われた、あるいは従事者の数が著しく減った職業・職種はあった。しかしながらそれに伴ってより人手を必要とする職業の方に移動が起こる。あるいは同時に新しい職業が生まれてきて、そちらのほうに労働人口がシフトしていく。その様な例は枚挙に暇がない。

例えば、産業革命で繊維産業の機械化が進み、布の値段が大幅に下がったことで服の需要が高まった。服の需要の高まりは、ボタンなどの付属品、装飾品の多様化など、たくさんの関連する職業を生み出した。長い歴史の中にはこのような事例はたくさんある。

同様なことが、AIについて起きても不思議はなく、AIの発展により新たな職業が生まれてくるという期待も大きい。この場合、新たに生まれる職業や業務の例としては、AI開発はもちろんのこと、それにかかわる調査、教育・訓練などの付随的なもの、もっと大きくはAIを利用するサービスを用いた新たな業務や職業などが挙げられる。

AIは思いもよらぬ分野で需要を膨らませることも十分ありうる。この新しい職業の誕生は、建設的なパイの拡大さえも引き起こす可能性がある。AIが大量のデータを分析することによって、潜在するニーズを掘り起こして、これまでにない欲望が顕在化し、それを満たすための新たな産業が創り出される可能性が高いからである。大量雇用・大量生産をベースとする経済でなく、知恵やアイディアが付加価値の源泉となってくるのである。

思いもよらぬ需要という意味では、新型コロナウイルスの蔓延もそのようなニーズをもたらした。何度も起こる変異種の発生でその収束のめどが立たない中、人の接触を減らすことが求められてきた。そのためにも、AI利用などによって自動化できるタスクから、それが難しいタスクへと人材を移す必要が認識されてきた。これは産業地図の塗り替えとは言えないまでも、働き方改革をもたらした。そしてその働き方改革も、いずれ産業地図の塗り替えを引き起こす可能性が高い。

ノウハウや技術の継承性の課題

AIの導入によって、例えば個人が長い年月をかけて工夫と勘と経験により知識を蓄積していこうというインセンティブが衰えてくる反面、データサイエンスによって短期間に組み立てられていく知識を効率よく修得することによって、次なる目標に挑戦していけるようになったという事例もよく見かけるようになった。次に紹介する化学製品を生産する工場の例もその一つである。

多くの生産工場などでは、従来トラブルの対応の多くはベテラン社員の経験と勘に頼っていた。しかしそれは経営側にしてみれば、転職などによる不連続性の不安をもたらしてきた。そのため、いくつかの会社はAIが開発される前から、熟練者のノウハウを可能な限りITを駆使してシステムに蓄積して、誰でも分かるように標準化する努力を重ねてきた。ところが通常、熟練者からノウハウを聞き取ってシステムに追加していくのには膨大な労力がかる。

そこである工場ではその問題を解決するため、監視すべきポイント、トラブルの原因を究明する手法、それに対するアクションなどのベテラン社員の経験と勘に頼ってきていた意思決定の要素をAIに学習させた。その結果、安全と品質を最大化させる運転条件を導き出すことができるようになった。現在、次のステップとして、それぞれのプロセスにおいてより細かな分析を行うことによって、最低限の原料とエネルギーで生産できるようにしてコスト削減、低炭素化もはかっていくことを検討し始めたそうだ。

 このような暗黙知をAIに伝承させようとする試みにも、ペシミズムとオプティミズムの双方が見られる。前者としては、人間が頭を使わなくなってきて、多くの面でAI依存症が蔓延してくる可能性が指摘されることが挙げられる。一方、多くの分野で暗黙知をAIに伝承せざるを得ない状況になっており、さもなければ貴重な暗黙知が消失されることをさけることができると、大きな期待がもたれている。

例えば農業でも、熟練の技をAIで分析し、生産性の向上をはかったり、若手や未経験者でも熟練の技を使えるようにすることが試みられている。農業従事者人口が激減し、また平均年齢も高くなる中、AIの活用は国民の生活を支えるに必要な食料の生産量と質を維持するためには欠かせなくなってきている。

同様な人材の問題は、多くの中小企業でも起きており、AIを活用して人手不足の解消、事業の継続、生産性の向上を考えていかなければいけないフェーズに来ていると言える。このような状況は「頭を使わなくなってくる」と心配する前に、「使える頭数を揃えられない状況」を乗り越えなくてはならないとさえ言えるのである。

これまでも述べてきたように、確かに個人やグループが持つ技術やノウハウがもっぱらAIに伝承されていくと、長期的な視野から見ると人間には伝承さていかなくなるリスクが発生する可能性はある。しかしながら、人材の払底に悩む分野においては、とにもかくにもAIに伝承していかなければ、このような技術やノウハウが絶滅して元も子もなくなってしまう恐れがある。

 人手不足の分野だけでなく、いくら人手をかけても時間が足りないという問題を抱える職場の状況を打開することにもなる。例えば、新薬や新素材の開発では、世界中で発表される大量の論文に目を通して、そこからエッセンスを抽出して組み合わせを考えて行くことが有効な方法と知られている。しかしながら、実際にはこの作業を人手で行ったのでは相当数の人数をかけても、とても読破できない。しかしAIはそれを難なくこなしていく。これによって人間の論文の読解力が低下してくる恐れはあるが、一方では大量の論文を分析して得られた結果を利用して、読解力とは異なる能力を必要とする、新薬や新素材の具体的な開発により多くの時間を費やすことができるようになる。

70.6 大所高所から見た不安

{ブログの中のナビゲタ}産業全体として眺めると、「見えない力」で地図の塗り替えが起きるとしても、全体のパイは確保されるのではないかという意見が有力なようですね。この「産業全体」で考えるのも大きなくくりではありますが、ちょっと異なった面の大所高所から見た不安についても考えてみましょう。それはAIが職業とか産業の変化を通して、人間そのものに与える影響です。

労働からの解放は何をもたらすか

ブログブログの中のナビゲタ}AIの広がりによって職を失うことは簡単には起きないであろう、あるいはたとえそうなったとしても別のタスクへ移行すれば良いという考えに、人によっては完全に納得はできないかも知れません。しかし歴史的なエビデンスなどから、その様な考えには一理あると考える人は多いのではないでしょうか。
それでも、大所高所から見た不安が残りませんか。もし残っているとしたら、その一つは「AIの発展で人間が職能的に退化する恐れ」ではないでしょうか。

本章の前半の70.2項で述べた「純粋な頭脳的作業の効率化」が進んでいくと、人間社会にどのような変化をもたらすであろうか。いくつかのことが想像される。一つ考えられるのは、人間の頭脳の低下である。

ハイテクの進展が人間の能力に与える影響については、既にインターネットやスマートフォンの利用が人間の記憶力や集中力の低下を引き起こすと指摘する調査研究は多い。同様に、自然言語処理技術の発達は人間の言語能力の低下を引き起こす可能性があるとも言われている。

AIのさらなる広がりは、これらに拍車をかける恐れが十分ある。AIの浸透は、人間を楽にする方に追いやり、考える作業の激減をもたらし、記憶力や集中力のみでなく思考能力の低下さえも引き起こす可能性が高いという警鐘もある。

人間が長い歴史のなかで培ってきた、人から人への伝承の文化の衰退も危惧される。経験者が長年にわたって蓄積してきた暗黙知のようなものも、AIに伝承されることによって、人間には伝承されなくなる恐れがある。その結果、人の頭の中がスカスカになって、多くの面でAI依存症が蔓延してくるかも知れない。

これらのことは、既に業務で生成AIを積極的に取り入れている人達にとって、どこか思い当たる節があるのではかろうか。

もしあらゆる課題に対応できる汎用AIが開発され、さらにそれが普及すれば、全人口の1割程度しか働いていない社会が到来するとの予測がある。その予測にどの程度の信憑性があるかはともかく、これまで人間が行ってきたことをAIに移行するというトレンドはますます強くなっていくであろう。それが極端になってきて、人間が関与する必要のない作業が急増してくると、平均的には仕事に要する時間は減ってこよう。そうなるとこれによって作られる、空いた部分をどう埋めるのがよいかが分からず、路頭の迷うというような贅沢な不安も出てくるのではないだろうか。AIも含めた機械類があらゆる種類の労働に従事するような状態に近づいてくるとなると、一体人間は何をすればよいのであろうか。

これまで機械による肉体的労働の軽減は、頭脳的作業の割合を増やすことによって埋め合わされてきた。それに対して今度は頭脳的作業すらも軽減されるとなると、新たにどのような活動を増やすのか直ぐには思いつきにくい。AIロボットを含めた機械類が全ての労働に従事して、人間は全てのやりたくない労働から完全に解放されるということになった暁には人間社会はどうなるか。

「その分、楽しいことに費やす時間を増やして、もっと人生を楽しめば良い」という楽観的な意見は大いに歓迎である。そのような変化を拒否するつもりは全くない。しかし、果たして手放しでそのような夢を追いかけて、本当に大丈夫なのであろうかという不安も湧いてくる。禁断のリンゴの実を食べて、失楽園に追放されるようなことにならないであろうかと言う不安である。「小人閑居して不善を為す」ということわざが脳裏に浮かぶ。

万物の霊長神話が崩壊? 

{ブログの中のナビゲタ}上で述べたような贅沢な不安の延長線上を、さらに高いところに上って、人間のレゾンデートル(存在理由)という点まで考えてみましょう。

尽きることの無いAIの進歩によって、別の種類の不安も湧き上がってくるようにも思える。もし万能のAIが開発される、あるいは無数のAIの容易な組み合わせが可能となった暁には、人間の脳あるいは知能のしくみを全て機械の上で再現できることになり、それは人造人間に近い存在になる。その人造人間は、記憶の容量や学習のスピードなどから人間の脳よりも高度な頭脳をもつようになるだろう。そうなると、AIが人間に近づくのを通り過ぎて、人間を超えることになる。

もし本当にそのような状況になると、AIの挙動を人間が予測したり、制御することは困難であるということになる。これもこれまでの歴史で、経験したことのない現象である。

「地球上のボスとして君臨してきた人類が、その英知を超えるAIにボスの座を奪われることへの恐怖心がある」という論説を読んだことがある。たしかに猛獣にいつ襲われるか分らない不安の中で生きていた原始時代はともかくとして、遅くともギリシャ・ローマ時代あるいはそのもっと前から、人間は自分たち人間があらゆる生物の階層構造の中で、唯一最上位に位置する生き物であると考えてきた。このように長年にわたって地球上の王座に君臨してきた人間が、その座を奪われる。しかもほかならぬ自分たちが育ててしまった化け物に。そうなった時、やや大袈裟な表現ではあるが、人間のレゾンデートル(存在理由)はどこに見いだすことができるのだろうかと心配するのは杞憂であろうか。

しかしある意味、現代でも人類全体の中では相当な割合の人が、人間よりも上の存在があると思っている。神あるいは仏がその存在である。人類はその神あるいは仏とは十分共存してきたし、国や民族によって差はあるものの、今でも多くの人は共存している。それでも、その神や仏は人間がよい行動、よい性格を持っている限りは、常に自分たちのためによくしてくれると信じているから、畏敬の念を持つことはあっても恐怖心を抱くことはない。

これに対してもし将来、すべての面で自分たちよりも知能が優れたAIが出現するとなると、AIが実質的に我々のボスになりそうだ。そうなった時、AIが常に自分たち人間のためによくしてくれると信じることもできずに、嫌悪観や恐怖心も生まれてくる。AIは人間よりも優れているが、それを神様のように信ずることはとてもできない、悪魔のような振る舞いもするのではないだろうかという不安が生まれてきても不思議でない。

一方、「AIが実質的に我々のボスになっていく」ということについて異論を唱える人もいる。いくらAIが我々よりも知能が高くなったところで、所詮人間が設計したり開発するもの。それが人間を支配するというようなことはSFの世界ではあるが、現実世界ではあり得ないとする意見である。そのような人達は、AIと人間の間には上下関係ではなく、せいぜいパートナー関係が生まれてくるだけであると考える。では、パートナー関係ならば不安は生じないのだろうか。

たとえ一部の領域であろうと、自分たちの知能より優れたものが現れる。最初のうちは、それは面白い、それは助かったな、良きパートナーに恵まれたな程度で済むかも知れないが、それがだんだんと人間より優れる分野が広がっていくと、不安な気持ちになっていくのではなかろうか。何しろそのパートナーは自分たちよりも成長が速そうなので、枕を高くして眠れない気持ちになっていくのではないだろうか。あたかも同じ職場内で、ライバルが自分よりも速く成長・出世して、権限を拡大していくのを、指をくわえて見ているしかないときのように。

そのような不安に席巻されてきたらどうすれば良いか。幸いそうなるまでには、今少し時間がかかるようなので、後に別の章で改めて考えていきたい。


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