第21章  人間の学習と機械の学習

{ブログの中のナビゲタ}前章で挙げたようないくつかの課題はあるものの、それらを除けばAIは何でもかんでも学習して利口になっていけるのでしょうか。もしそうだとしたら、昼夜を徹して繰り返し作業をすることを厭わないAIは、あらゆる分野で人間の能力を超えていく可能性を否定できないことになります。本当にそうなのでしょうか。

1. 人間のやり方を真似る機械学習

 現在、世界中で機械学習の研究・開発は休むことなく進められているが、大きく二つの方向があると言える。その一つが、“いかに人間を真似るか”である。人間の脳が学習するメカニズムをAIが真似るためには、少なくとも(1)人間の脳がどのようにやっているかが分かること、(2)それをコンピュータでシミュレーションできることが必要である。
 まず、(1)の「人間の脳がどのようにやっているかが分かること」については、人間の脳の働きを理解する必要があり、脳科学・認知心理学などの知見が利用される。しかし、現在のところ、まだこれについて全てのことは分かってはいない。何が分かってきていて、何が分かっていないかは非常に複雑であり、また専門的なことなので、ここでは深追いをしないが、言うまでも無く、人間の脳がどのようにやっているかが分からないことは、人間をまねる機械学習ではできない。
 次に、(2)の「それをコンピュータでシミュレーションできること」についてであるが、これもいくつかの考えがある。まず、代表的な例がディープラーニングである。前章で述べたように、これは人間の脳の構造をモデルにしてコンピュータでシミュレーションしている。そして現在開発されている機械学習を利用しているAIの多くは、このディープラーニングを利用している。
 ところが、一部の専門家のあいだで、「今考えられている機会学習は、本当に人間の脳の働きをシミュレートしているものではない」という意見もある。そのような意見は主として技術的な論議から生まれてきているが、感覚的に賛同できる面もあるような気もする。
 一つの例として、ここに里芋が育っている畑があったとしよう。それを初めて見た子供に、親が「これは里芋だよ」と一度教えただけで、その子供はなんら深い分析をせずとも、それ以降別の機会に里芋の葉を見つけては「あ、サトイモだ」と言えるようになることは十分ありうる。これは明らかに教師あり学習と言えるが、人間は一つのデータだけで学習しうることを示すものである。
 ところがたった一枚の里芋の葉の写真を入力して、それが里芋であることを教えただけで、それ以降里芋を見て「サトイモ」と判断できるようになることは、現在のAIでは考えにくい。そう考えるのは、第7章「機械が学習するとは」で述べたように、統計的な処理によって判断基準を作っていく機械学習においては、ある程度の量のデータをそろえなければならないからである。それに対して一回のサンプルだけで認識できる人間は、統計以外の方法で学習をしているように思える。そうなると本当に人間の頭の中の物理的あるいは生理的な動作を、コンピュータによってシミュレートすることができるのだろうかという疑問が浮かんでくる。
 なお、同じく第7章の「機械学習の実用的な効果例」の項の中で、スマホで撮影したわずか2枚(正面と側面)の全身写真から、写っている人の体の各部位の寸法を高精度で推定できるAIのことを紹介した。しかし、これは事前に人間の体型に関する大量のデータで学習しているからできるのであって、何もせずにこれを行うことは困難であろう。
 ディープラーニングが厳密に脳の働きをシミュレートしているのか否かといった議論は専門家に任せて素通りしたとしても、この里芋の例のように、人間の脳と機械では、学習についていくつかの本質的に異なる点があるようにも見える。このような本質的に異なる点は、学習の種類に由来すると思われる。この学習の種類については、本章の第3項「人間にとっての学習」で考えることにしよう。もし、シミュレートできない学習のタイプがあるならば、それは人間をまねる機械学習に制限をもたらすことになる。

2.独自の道を進む機械学習

 機械学習の研究のもう一つの方向は、人間の真似にこだわらず、機械が持つ基礎的な力を利用し、さらには機械の強みを駆使して、独自の学習方法や学習モデルを確立していこうという方向である。人間と機械とで、原理ややり方が異なっていても、学習という目的が達成されるならば、それで良いではないかという考えである。実際、脳と同じ仕組みでなくても、似たような手法が見つかればAIはかなりのことができるようになると考えるAI研究者は多い。
 この方法が取れれば、「少なくとも(1)人間の脳がどのようにやっているかが分かることと、(2)それをコンピュータでシミュレーションできることが必要である」という課題を避けて通れることになる。では、このような独自の道をいく機械学習にはどのようなものがあるであろうか。
 第8章で整理した機械学習の中で、「教師なし学習」のうちn次元の特徴空間における「クラスタリング」による学習は、同じことを普通の人間の頭(だけ)でおこなうのはほぼ不可能である上、実際そのようなことを意識的に行なっているとはとても思えない。一方、AIは難なくこの方法で学習を積み重ねていく。そう考えると、これらは独自の道をいく機械学習と言えるのではなかろうか。
 さらに、取られた行動に対して「報酬」が与えられて学習していく強化学習についてもそう言えるように思える。ひょっとして人間の脳も無意識のうちにこのような「報酬」の概念を使っている可能性もあるが、定かには分からない。そしてたとえその様なことがあったにしても、とても明確な「状態を評価するための式」を作り上げているとは思えない。人間から何も教えてもらわず、この強化学習によって人間の知能を超えたと考えられる「アルファ碁ゼロ」が、時として人間には考えつかないような手を打つことがある、というのは人間とは別の方法で学習することによって、人間の持つ制約を破ることができた例とも考えられる。
 このように、人間が学習できる範囲は、人間の能力に制約されているはずであり、人間とは別の方法による学習でその制約を破ることさえ可能であろうと期待できる。

3.人間にとっての学習

 {ブログの中のナビゲタ}ここまでで、機械学習に関する研究・開発は大きく二つの方向があるということが、ご理解いただけたと思います。この二つの方向は、こと機械学習に限らず、一般にAIの研究・開発についても言えることです。
 ところで、これは機械がどのような原理で学習するのかということを理解するのには役に立ったと思いますが、まだ機械は何もかも学習でき、それを重ねていくことによって、ついには全てのことについて機械が人間を超えるのかという疑問は残りますね。
 先ほど上げた里芋の例のように、人間とAIの学習についてちょっと考えただけでも、漠然とではあるものの、なにか両者の間に違いがあるような気がしませんか。いったいどこに違いがあるのでしょうか。この疑問は単に好奇心からだけではありません。
 すでに述べたように機械学習の導入はAIの進歩に大きなインパクトをもたらしており、今なおそれが続いています。すなわち学習機能は今後もAIの開発に大きな影響を与えると期待されます。そのためにも、この学習に関する人間とAIの比較について、もう少しページを割いて考えていきましょう。まず人間にはどのような学習があるか振り返ることから始めましょう。

 認知科学などで研究の対象としている、人間にとっての学習という概念はかなり広い。人間は学習する内容の種類もたくさんあり、学習する形も小学校から高等教育までの間の学校での学習のみならず、家庭における自分だけの学習、教育機関以外の場で幼児期から社会人になった後まで続く周囲の人から学ぶ学習など多種ある。ライフステージのどこにあろうとも、これまでに積み上げてきた自分の経験を思い浮かべてみれば、容易にこの広さが納得できるであろう。
 この人間の学習についてはAIの研究が始まるずっと以前から研究がなされてきており、いろいろな分類方法がある。その一つに「記憶による学習」「理解による学習」「問題解決による学習」「習熟による学習」「推論による学習」といった分類方法がある。まずは、これに沿って考えていくことにしよう。
 一番シンプルな、だからと言って一番簡単ということでは決してない学習の種類は、「記憶による学習」であろう。暗記はその代表的なものである。例えば、車の運転ができるようになるためには、最初に「アクセルを踏むと加速し、ブレーキを踏むと減速する、左に曲がるときはハンドルを左に回し、右に曲がるときは右に回す」などを学習するのは、暗記すなわち「記憶による学習」である。
 教習所の講義ではただこういった暗記だけではなく、なぜそうなるかも教えてもらえる。「アクセルを踏むと、エンジンに燃料を送り込む弁が大きく開いて、より多くの燃料が注入され加速する。ブレーキを踏むと車輪の動きを止めようとする力が働いて減速する。ハンドルを回すと前輪が同じ方向に向きを変え、車の動く方向が変わる」ということを教わる。
 これらのことを学習すると、「アクセルを踏むと加速し、ブレーキを踏むと減速する、左に曲がるときはハンドルを左に回し、右に曲がるときは右に回す」ということがより鮮明に頭に残る。これは機械的に覚えるのではなく、なぜそうなるかを理解しながら覚えることにより、知識をよりしっかりしたものにできるからである。このような学習は「理解による学習」と言われる。
 このように理解による学習をすることによって、人間は知識をよりしっかりしたものにできるが、それだけでは車を安全に運転できない。いろいろな動作について頭で記憶しても、車庫入れのようにいざ実施するとなるとうまくいかない人もでてくる。何回か恐る恐る車を動かしていくことを繰り返して、スムーズにできるようになる。これは何回も練習して慣れることによって知識を増やすので「習熟による学習」といわれる。「体で覚える」と言われるのは、この「習熟による学習」の一つと考えられる。
 第7章の第2項で紹介した御曽崎の「機械学習」に関する疑問の中で、彼がゴルフについて学習できないことを悩んでいることにちょっと言及したが、これはこの「習熟による学習」が十分できないことによる可能性が高い。
 日本人の場合、多くはこのレベルまでは自動車教習所で習うが、そこを卒業して運転免許をとっても、実際に町の中を走るとそれまで経験したことのない状況にでくわす。例えば車2台がぎりぎりですれ違いできるような狭い道で対向車と対峙するといったようなことに巡り会う。このようなことはある意味問題を抱え込むと言えるが、とにかくその問題を解決しないと先に進まないので、何らかの解決方法を身に付ける。解決方法が人によって異なることは大いにありうる。
 これも知識を増やす一つの方法で、「問題解決による学習」といわれる。これは、問題を解決することによって、初期状態と言われる状態と、目標とする状態との間ギャップの埋め方の知識を増やしていくことである。
 このように「問題解決による学習」では新しい知識を増やすよりも、それまでに蓄積した知識をどう応用して行けば良いかを学ぶことが多い。経営を学ぶ上でよく用いられる、実存する企業が実際に直面する(した)課題について議論する事例研究(ケーススタディ)は、この「問題解決による学習」が主体と言えるだろう。
 最近の日本では車を運転するときにカーナビを使うのはごく当たり前のことになっているが、ひと昔前や、今でも多くの途上国ではそのようなことはない。デジタル地図などカーナビに必要なインフラが整っていないからである。このような場合、初めての場所に車で行くときは、アクセス方法などの事前に得た情報を基に、「こっちの方向だろう」等と、推論しながら走ることによって道を覚えていく。
 このようにして知識を増やしていく学習は「推論による学習」と呼ばれる。第5章の中の第4項「思考力(1) 全体」で説明したように、推論とは既に知っている事柄を基にして、未知の事柄について予想し、論じる事である。この場合は、事前に見ておく地図や、行き方の説明文が「既に知っている事柄」であり、「未知の事柄」は実際の場所やそこを運転していくことになる。
 一般的に、新しい領域の学習をするとき、その領域に多少なりとも似ている領域の知識を利用して「これと同じようなものだろう」などと推論しながら学習することが見られる。これはアナロジー(類推)といわれる、「推論による学習」の一つである。

4.人間の学習の特徴

 以上のように、人間は「記憶による学習」「理解による学習」「習熟による学習」というように、いくつかの種類の学習を織り交ぜながら、知識を増やしていくと言える。。このように多種類の学習の仕方を持っていることは、人間の学習の特徴の一つと言えよう。
 学習の仕方が多種あるために、たとえ同じ内容であっても、人によって異なる学習方法をとることもできる。たとえば、この項を読んで、もし「ああ、なるほどこのような学習の種類があるのか」ということを改めて認識したならば、その人は学習したことになる。
 この場合、文章・単語・例などをほぼそのまま覚えてしまえば「記憶による学習」であり、これらを覚えなくても内容を理解して納得すれば「理解による学習」となる。また読みながら丁寧に他の例などを頭に描きながら理解を深める人がいれば、それは「習熟による学習」と言えよう。さらに、{ブログの中のナビゲタ}を読んで、前もって問題意識を持ちながら読んで学んだ人は「問題解決による学習」に近いことをしたことになる。
 もう一つの人間の学習の特徴として、単に外部から与えられた情報によって知識を増やしていくだけではなく、実際に知識を使うことによってその知識の形や内容を補正や修正することがある。
 例えば、品質改善に関する外部から得た知識を、実際に自分たちの現場に適用しながら、自分たちの置かれた環境によりうまくフィットする形に変えていくというようなことが行われる。あるいは自分のもつ既存知識を用いて外部から与えられた情報を加工し、自分なりの形を作り上げるといったことさえもする。「学習した内容を(経験や既存知識によって)変える学習」と言えるであろうか。これらのことは最近の経営学で重要視されてきている、ナレッジマネジメントでも盛んに議論されている。

5.学習の種類から見る人間の学習と機械学習

 {ブログの中のナビゲタ}人間の学習についてある程度整理が進んだので、次に具体的にどこに人間の学習と機械学習の間に類似点や相違点があるのか、そしてその違いはAIの学習にどのような制約をもたらすのかなどを考えていきましょう。

 ここからは、先に挙げた学習の種類ごとに人間とAIの学習を比較してみよう。まず、人間と比べてメモリー容量がはるかに大きいコンピュータを使うAIは、「記憶による学習」が得意なことは間違いない。
 またAIはデータを増やしていくことにより、その特徴をより正確につかんでいくことができる場合が多いが、これも一種の「記憶による学習」と言えるだろう。しかしながら、これは主として統計の特徴を活用しているので、その仕組のみを用いた機械学習では、統計的な処理では情報の特徴をつかみきれない事象については学習できない。
 統計的な処理では情報の特徴をつかみきれないようなパターンはいくつかあるが、一般的にノウハウ的な情報はその例であろう。例えば、こうすれば新しいアイディアが生まれやすいという発想法について習った時、過去にこの発想法を使ってこのようなアイディアが生まれたという事例をたくさん記憶していったらどうなるであろう。たまたま記憶した事例と類似の案件について検討する場合は役に立ちそうであるが、これまでに無いような案件や独特の条件があるような場合には、新しいアイディアを生み出そうとしてもあまり役に立たないであろう。それよりも、実際にその発想法を使って新しいことを発想する練習を何回もかさねて、その使い方に慣れていくほうがよい。これは「習熟による学習」であるが、これはAIが得意とするデータの統計的な処理によって発想法の特徴を把握していくのとは異なる学習方法であろう。
 「理解による学習」は微妙である。第6章の第11項「理解力(2) 情報の意味の解釈」でも言及したように、AIが文章を理解できるか否かについては、専門家の間でも意見が分かれる。これは主として、何をもって「理解した」と判断するかによる。AIは文章を記憶することはできるが、真の意味で理解することはできない、と考える専門家はいる。もしそうだとしたら理解による学習は困難と言える。
 たとえば、小説を読む場合のことを考えてみよう。コンピュータの場合は全文を入力して、そこに登場する人物間の人間関係や、その変化を知ることはできる。AIは各人物が登場する頻度や取られる行動、交わされる言葉などについて、統計的な分析などを行うことができるからである。したがってAIに「ロミオとジュリエット」を読ませて、ロミオに恋したのは誰かと聞けば、それはジュリエットである、と答えることは十分可能であろう。さらに二人は幸せな結婚をすることができたか、彼らの悲恋の原因はなにか、などの質問にも正確に答え得るだろう。しかしこれらは基本的に記憶による学習の成果と言え、理解による学習はしていないとも思える。
 AIは「論語読みの論語知らず」に近い状態といえると考える専門家もいるが、最初に断ったように、AIがこの理解による学習をできるか否かは微妙なところであると言える。しかしながらAIは人間ほど理解による学習はできないとくらいは言えそうである。
 例えば、人間はたとえロミオやジュリエット等の名前さえも忘れても、この本を読んだことによって理解し学習した恋愛とか人間社会の構造について、自分の人生のため、あるいは他人のためのアドバイスに使ったりすることができる。それに対してAIの方は、名前を忘れるようなことはありえないが、その内容を使ってうまく他人にアドバイスできるかどうかは微妙なところである。
 次に、「推論による学習」についてはどうであろう。第7章、第8章などでたくさんの例に示したように、機械学習の多くは推論し、その結果のフィードバックを得ることにより学習するというスキームをとっており、その意味では「推論による学習」は一般におこなわれていると言える。多くの場合このプロセスを通して、特徴空間におけるグルーピングの仕方などを変えることによってよりよい結果を得られるように学習していく。
 一方、人間はいくつかのタイプの「推論による学習」を行っていると考えられる。例えば、人間はアナロジー(類推)を使って推論を行うことがある。これは、既に知っていることを他のことを理解するのに適用する方法であるが、人間の場合はこのようなアナロジーを利用した推論方法は訓練することによって、より効率的に適用することができるようになると言われている。ところが、そもそも人間はアナロジーによる学習がどのようにしてできるのかということも十分に解析されていなく、この種の推論による学習はまだシミュレーションの方法が確立していないように思える。

6.学習学習機会から見る人間の学習と機械学習

{ブログの中のナビゲタ}ここまで種類やプロセスの面から、人間とAIの学習にいくつかの特徴的な違いがあることを検討してきました。実はこれらのほかにも、この両者の差を示すものがあるように思えます。それは学習する機会の違いです。

 人間とAIには学習の機会にも特徴的な違いがあると思える。それは意図的(intentional)な学習のほかに、無意識的にあるいは偶発的(incidental)に学習をするか否かの違いである。
 人間が何か学ぶと言ったとき、授業を受ける、机に向かって勉強をする、図書館に行って調べる、人に質問するというように意識的に学習することを頭に浮かべることが多い。しかしながら、このような意図的な学習だけでなく、無意識的にあるいは偶発的に学習することも結構多いのである。
 子供が遊びの中で意識せずに何かを学びとり、それがのちの自分の考え方に影響を与えたというようなことはこの偶発的な学習と言える。また将棋の遊び方を学習している間に、意識せずに駒の上に書かれている漢字を覚えてしまうというようなことも無意識的な学習と言える。「門前の小僧習わぬ経を読む」というのもこの例と言えよう。いずれも意図的な学習の結果でないことが共通している。
 子供の学習に限らず、家や事務所の間取りを記憶するとか、ドライブに行った時のことを覚えるといったようなことも、明らかに意図的な学習ではなく、大人も行う無意識的な学習によるものである。このように人間は多くのことを、無意識的に学習する。
 それに対して、学習することをプログラムで規定されたAIは、基本的に無意識的な学習はしない。最新版のロボット掃除機の中には、掃除しているときに得たデータで家の中の地図を作成する機能があることは前に紹介した。何も知らない状態から、経験を積み重ねていくことによって、地図を描いていく。たとえ家具を動かしても、新たに地図を書き換えることもできる。これは一種の学習である。しかしこれらはその様なことを学習するようにプログラムされているからできるのであって、そうでなければ二、三世代前のロボット掃除機のように何も学ばずに、いつまでも行きあたりばったりの動きをする。
 ちなみに進歩した掃除ロボが「この家にはいくつ部屋があるか」という質問に答えることができるようになったとしても「この家にはいくつ窓があるか」という質問には答えられないであろう。これは、部屋の数については掃除を効率よくするために意図的に学習する可能性はあるが、そのためには窓の数を覚える必要はないからである。これに対して、たまに来る訪問看護師の人がその家の中にどのくらいの大きさの窓がいくつあるかということを無意識のうちに覚えてしまうということはありうる。これらは意図的な学習のみをするAIと、偶発的な学習も行う人間との違いと言える。
 ところで果たして、このAI無無意識的にあるいは偶発的な学習機会を持たないことは、AIの活動に支障をもたらしたり、制限をもたらすであろうか。現在開発されている、あるいは実用化されているAIのほとんどは、ある特定の分野に限られたタスクを効率よく行うためのものである。そこにおいては、その目的を達成するため種々の学習方法によってきちっと学習がなされるので、偶発的な学習機会を持たないことは、AIの学習に大きな制限をもたらすとは言えないかもしれない。
 しかしながらもし総合的になんでもできる、いわば汎用AIの開発を目指すのであれば、偶発的な学習機会を持たないことは、何らかのハンディキャップになる可能性は高いであろう。特定の分野に限定せず、なんでも相談できるチャットボットなどは、その可能性が高いと思われる。
 もっとも、最近の生成AIはかなり広い範囲のことについて、なんでもたずねたり、相談できるようになったという印象がある。しかしそれは、生成AIが無意識的にあるいは偶発的な学習をした結果というより、それこそ膨大な量のデータを学習した結果と言えそうである。

7.機械学習の未来

 以上のように比較してみると、現在の機械学習は人間の学習に比べて、学習の種類も少なく、学習の仕方も限られており、さらにそれを適応できる範囲が限定されていると言える。その差はかなり大きいと感ずる人も多いのではなかろうか。このような差があるのは、人間にとって学習とはかなり広い活動を意味するのに対して、現在のところ機械学習のほとんどは「何らかの規則や判断基準など」を見出し、その結果を用いて特定の目的を実行することに限られているからと言えよう。
 人間の場合は、学習にかかわる情報処理は神経回路で行い、その結果は情報の種類によって脳の中のしかるべきところに貯蔵され、必要に応じて再び神経回路を使って貯蔵庫から引き出される。人間にとっての学習は、記憶、理解、習熟、問題解決、推論による学習といった種類があると述べたが、内容によってこの情報処理を行う神経回路の働き方、さらに結果を貯蔵する部位なども異なると考えられている。これは第20章で説明した、眼に映ったものが何であるかを脳が認識するのに、脳のたくさんの部位を使うのと似ている。このように人間にとって学習とはかなり並列処理的な行為と言える。
 AIの機械学習では、数理モデルや統計モデル等を使ったアルゴリズムで、事前に取り込んだデータのパターンを認識することやそれに基づく推論などによって、特定の課題を効率的に実行する。例えば現在のところ最も盛んに開発されているディープラーニングをとっても、そこにはたくさんの種類のモデルがあり、また一つのディープラーニングを用いたAIでも、複数のニューラルネットワークが使われることもある。しかしながら、これらは脳機能に見られるいくつかの特性に類似した数理的モデルである。この「いくつかの特性だけ」がシミュレートされるところが、現在の機械学習は人間が行う学習に比べてその範囲が狭くなる理由の一つと考えられる。
 しかしながら、このニューラルネットワークをより生物学的な脳の働きに近づけることができるモデルも検討されている。これはディープラーニングよりも扱える問題の範囲が広い次世代技術と言われている。また、入出力信号が複素数値であるようなニューラルネットワークや、ベイズの定理(専門解説コラム、「G2数理・理論・統計等に馴染みの少ない人のために」を参照)を利用して個々の変数の関係を条件つき確率で表すことによって複雑でかつ不確実な事象の起こりやすさやその可能性を予測することができる確率推論のモデルなど、多種多様なものが研究されている。
 しかも機械学習はニューラルネットワークによるものだけではない。教師なし学習や強化学習があることは既に述べたとおりであるが、このような親離れの傾向とは逆の、人間と機械の協調的相互作用を取り入れた機械学習システムも研究されている。
 このように機械学習は、今後もその範囲が大きく広がる可能性を秘めていると言える。人間がおこなう学習を参考にして、AIの学習に取り入れることは、まだまだたくさんある。また、「機械」の演算能力や強みを駆使しながら、ますますAIが便利になっていくことも期待される。
 もちろん人間がやっていることを全てAIができるようになる必要はないであろう。だが、「機械」の演算能力や強みを駆使しながら、人間にはできないこと、人間にはやりたくないことをAIがやってくれて、人間の生活が楽になる、楽しくなるようになれば、有難いこととも言えよう。


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