第70章 AIは自分の職を奪うか (前半)

 {ブログの中のナビゲタ}良い意味でも悪い意味でも、AIが自分達の生活にもたらすインパクトは様々あります。その中の一つである、分野によってはいずれAIに職を奪われるかもしれないということは、大きな不安の一つでしょう。まず、そこらあたりから考えてみましょう。

70.1 歯科医院での話

御曽崎は先日、歯の定期検診のために行きつけの歯科医院に行った。歯科医師は一通りチェックして問題が無いことを確認すると、歯科衛生士に代った。歯科衛生士は歯石を取り除くなど、歯とその周りの衛生環境を整えてくれる専門職である。彼はその衛生士に向かってたずねた。

「最近、専門職の多くはいずれAIに取って代わられてしまうという論調を目にするけど、歯科衛生士についてはどう思いますか。」
「そうらしいですね。怖い話ですね。」
「でも人間の歯の形は、それによって死体が誰のものか特定できるほど人によって異なるのだから、AIでは処置が難しいのでは。」
「うーん、その点は一度歯型をとってしまえば、それに沿ってできるので、あまり難しいことではないと思います。歯石を見つけることは難しくないし、歯型があればそれを除去することも難しくないと思います。」
なるほどそうかもしれないと御曽崎は妙に感心した。

そこから、同じくこの歯科医院に勤める受付の女性はどうなのかを考えてみた。彼女はもちろん専門職ではなく、一般事務職であるが、その業務は、来客の受付、器具や薬品の準備、会計、次回の予約、電話の受け答えなどである。
しかもこれらの業務の一つ一つは、いくつかのプロセスから成立っている。たとえば「来客の受付」と一言で言うが、そのプロセスは、あいさつ、初診か再診かの判断とそれによって異なる対応、診療券や保険証の確認、着席の指示、カルテの抜き出しなどいろいろある。
ほかの業務も同様であるし、器具や薬品の保管場所などの知識も必要である。これらの業務やプロセスは一つ一つはAIやロボットに置き換えることが可能なように思えるが、そのすべてを一台のAIロボが行うようにするのは、作業種類が多すぎて現実的でないようにも思える。
そう考えると衛生士よりも受付の方が機械に置き換えられてしまう可能性が低いとも考えられる。

一方、国家資格をもつ医師のほうは、これまた患者の病変は多種多様で、これらすべてに対応できるようなAIは当面期待できそうにないように思えるが、実体はどうなのだろうか等と考えている間に治療が終わり、帰宅の途についた。

歯科医療で活躍するAI

その後しばらく、御曽崎は歯科医師に関するAI記事をそれとなく探してみた。すると、既に歯科領域でも、歯周病の早期発見から虫歯治療の現場まで、AIの活用が広がっていることを発見した。一つの記事によると3D技術を使い、元の歯を復元する設計にAIを活用している医院もあるとのこと。

歯科医はしばしばX線写真を撮る。その読影技術にAIを利用することで、初期段階の虫歯もすぐ発見できるそうだが、もっと広い範囲で利用されている例もあった。別の記事によると、あるAIはディープラーニングモデルを使い数十万人分の歯科データを学習している。これは歯科レントゲン画像やCT画像の分析はもちろんのこと、それだけにとどまらず、分析結果に基づく今後の病状進行のシミュレーション、診断結果のアウトプット、治療方針の設計など、歯科医療業務の全サイクルに対応している。
さらに応用範囲の拡大に向けて、予防歯科、矯正歯科、インプラント、修復治療、小児歯科向けのモジュールなども開発されているそうだ。このように、歯の疾患は短期的に命の危険に直結しないため、これまで他の診療科に比べAI活用の研究は後回しだったが、最近では日常の予防から早期発見、治療の効率化までAIの普及は進むと期待されている。

70.2 どのような職が危ないか

 御曽崎が調べたのは歯科医分野の例であるが、これに限らずAIが職あるいは雇用を奪うという記事は時折見かける。その多くは、特定の職業について、どれだけAIを使って、人手を減らすことができるか、裏を返せば現在その仕事に従事する人がどのくらい不要になるかという話題か、あまたある職業の中でAIにとって代わられやすい職業と、そうでない職業はなにかといった話題である。中には人類のほとんど全ての職業が奪われると考える極端な警告もある。実際、「AIやロボット技術により雇用が失われると思うか」というアンケートに対して「はい」と答える人は多いそうだ。

とは言え、さすがに人類のほとんど全ての職業が奪われると心配する人は少ないようである。もしそうだとすると、AIにとって代わられやすい職業とそうでない職業があると考えられているということになる。ではどの職種がなくなる可能性が高いかとなると、人によって予測は異なる。その中で、「雇用の未来」(The future of Employment)というオックスフォード大学から発行された論文が時折参照される。この論文では「スーパーのレジ係」とか「レストランのコック」といった具合に、かなり具体的な702の職業について比較されている。そこには例えば、小学校の教師のほうが、それよりも高等教育であるミドルスクールの教師よりもコンピュータで置き換えにくいなど、興味あることがたくさん述べてあるが、一般的には事務職やサービス業の仕事が代替される確率が高いことが示されている。ただし事務職やサービス業の仕事もたくさんの種類があり、職種によってかなり確率が異なる。一方、器用さや巧みさ、創意工夫、社会性などが求められる職業はコンピュータ化が難しいとされている。

この同じ教師でも教育課程の違いによりコンピュータによる置き換えの難易度が異なる例などから、職種よりもタスク、つまり仕事の中身毎に考える方がわかりやすいのではないかという考えもでてくる。実際、まず職種に関係なく労働者のタスクをコンピュータ化されやすいものと、されにくいものとに分類した調査研究もある。ただそれだけでは個人や社会が深い関心を持つ職業の変化の予測に結びつけにくい。そのため次にそのタスクに関する結果を米国の職業データベースに当てはめて、職業毎にどの程度機械に代替されうるかを数値化して、コンピュータによる職業の代替性を予測している。その分析の結果では、低賃金で学歴の低い労働者ほど、AIやロボットなどにとって代わられやすいと指摘されている。

かなり異なる指摘も

 同様な調査研究で、かなり異なる予測がされているものもある。例えば、同じ米国の労働省のデータベースに登録されている各職種について、必要な技能や知識あるいはAI関連の特許についての文章を調べることで、どの職業がAIの影響を受けやすいかを指数化したものがある。職業ごとに、既にAIを導入している割合や、各職業で行われているタスクと技術要素を結びつけて、どの業務がAIの影響を受けやすいかを客観的にみることができると考えている。この手法を使えば、機械学習やディープラーニングといった機能によって影響を受けるタスクや職業を特定することが可能になる。

そこでは大卒など知識や専門性の高い人ほどAIの影響を受けやすく、学歴の低い人ほど、その影響を受けにくいという分析結果を説明している。これは先ほどの分析とほぼ真逆な結論と言える。

{ブログの中のナビゲタ}このように相反する分析結果を読むと、どう考えれば良いのか分からなくなりますが、それでは不安は解消されませんね。一体、我々はどのように考えれば良いのでしょうか。

相反する結果が出る理由

AIに限らず、技術の進歩によって発生する失業のことを「技術的失業」という。この技術的失業は産業革命以降、断続的に起きてきた。しかしこれまでに生じた「技術的失業」のほとんど全てが、肉体的作業あるいは力ずくの作業が機械に置き換えられることによって起きたと言える。それに対して、AIによるそれは「頭脳的作業」が対象となる点であると言えるのではないだろうか。従って、AIの広がりによって失業が生じるか否かを論ずるためには、AIが人間の「頭脳的作業」をどう置き換えていくかを考えていくことが重要になる。

ここで注意すべき点が三つある。その一つは「頭脳的作業」が置き換えの対象となるといっても、それは単に頭脳労働的な職業がAIに取って代わられるということを意味するものではないという点である。頭脳労働的な職業のほとんどが「頭脳的作業」から成り立っているわけではないので。

次の一つは「頭脳的作業」のすべてがAIに取って代わられるということでもないという点である。まだまだAIには得手不得手があるし、一連の「頭脳的作業」の中にはAIで置き換えることが難しいものもありうるためである。

最後の一つは、いわゆる肉体労働と言われる職業においても「頭脳的作業」はたくさんあり、それらもAIに取って代わられる可能性があり、肉体的労働に分類される職業は安泰であるとは言えないという点である。

しかも多くの職業がたくさんのタスクやプロセスから成立っているだけでなく、一般にそれらの種類も多様である。多くの種類のノウハウや判断を求められるものであればあるほど、その職業はAIにまるまる取って代わられる可能性は低くなると言えるだろう。

このようにそう単純でないところから、上の様な、相反する結論が出てくるとも言えるであろう。

職種よりもタスク単位で考える

職種ごとにAIの影響の受けやすさを数値(AIエクスポージャー)で現わそうとする研究もある。このような数値で示すことが出来れば、職種ごとに相対的にAIに取って変われ易さが分かるような気もするが、AIエクスポージャーの数値が高くても、雇用が守られるケースと失う場合とがあるとされる。即ちここでは、同じ数値でも異なる結果になるということになる。

その違いは、人間が担うタスクを変えられるかどうかという点にあると言う。首尾良くタスクの再構築ができれば、たとえAIが職場に広く導入されていても、問題ない。むしろAIをうまく使うことで、その職場で働く労働者の賃金が上昇したり、雇用が増えたりする可能性さえあるという調査結果もでている。

このタスクの再構築の分かりやすい例は、定型的な要素の多い作業はAIに任せて、人が行なうのは人間が得意とする業務に移すというものである。例えば、定型作業はAIで置き換え、それまでその作業に従事していた人材は人とのコミュニケーション、不測の事態が起きた場合の対応などのタスクを担当できるように、仕事の分担を変えて行けば、雇用は残ることになる。実際、そうした対応策を探究することは、経営学でも重視するようになってきている。

{ここは考えどころ}具体的に自分の職がどうなるか
こうしてみると職業におけるAIの影響を考えていく上で、タスクのとらえ方が重要なポイントになりそうですね。自分の職がどうなるか気になる方は、職種よりも実際に行なっているタスク単位に分解して検討することがお薦めでしょう。そうすれば、自分の職がいずれどうなるかということだけでなく、それに対してどうしていくのがよいかも見えてきそうですね。

70.3 コンピュータの普及から学ぶ

{ブログの中のナビゲタ}「AIは基本的にコンピュータを用いるものでもあり、産業革命以降の機械による肉体労働の置き換えとは異なるという点で、AIとコンピュータの社会へのインパクトには共通的な要素も多いのではないか。したがってAIに関する不安を考える上で、既に黎明期から脱して、十分に社会に浸透するまでに至ったコンピュータが社会にもたらした変化を考察することは意味がありそうだ」と考える方はいらっしゃいますか。確かにその様な面があるかもしれませんね。そこでコンピュータの浸透と、それが社会にもたらした変化について考えていきましょう。

コンピュータが社会に広がりはじめたとき

何をもって最初のコンピュータと呼ぶかにもよるが、今でもコンピュータの基本であるプログラム内蔵方式のものが世に出されたのは20世紀の中葉である。そこからコンピュータは大きく進化し、それに伴って一般の人が抱くコンピュータに対する不安の種類や形・大きさは変化してきた。コンピュータとそれに対する人々の感情の変化をどのように見るかは人によって異なるところであるが、一つの見方として次のような歴史観(と言うほど大げさなものではないが)があっても無理はないのではなかろうか。

半世紀以上前では、コンピュータと言えば温度・湿度が管理され、防塵対策などが施された特別な部屋に設置された大型なものであった。そんなコンピュータが操作できる人の数は極めて限られており、利用者の種類も限られていた。その頃の多くの人にとって、コンピュータはマスコミなどで何かすごいことをするものとは思ってはいたが、全く身近なものでは無かった。もちろん大企業の中にはコンピュータを導入する企業もあったが、それを利用する社員は限られた範囲の人で、多くの場合皆が利用するものではなかった。その頃はコンピュータとは巨大な超高級品で、それを扱うには極めて専門的な知識が必要で、ブラックボックス的な存在であった。自分とは何の関わりも無い、別世界の化け物といった漠然としたイメージを持つ人が多かったのではなかろうか。

そのように一般の人にとっては別世界に近いようなコンピュータも、オフコン(オフィス・コンピュータ)と言われる、大型コンピュータよりも扱いやすいものが売り出されるようになった。それに伴い、中規模企業にも導入され始め、それを利用したサービスなども売り出されるようになってきて、じわじわと社会に浸透してきた。「コンピュータを使ったなになに」といったニュースや広告も増えてきた。利用者はまだある程度の人に限られていたものの、コンピュータがやることは何でも正しいという迷信も広がり、そこにつけ込んで、コンピュータ診断等と銘打って、大したこともないことを売り込む業者さえも現れた。コンピュータに対して未知のものに抱く不安のような感情も芽生えてきた。別段恐れおののくというほどのものではないが、理解しがたいもの、逆らえないものといった感情、あるいは逆になんでもできるというような神話的な感情も出始めた。

その後、半導体などの技術進歩によって、ミニコン(ミニ・コンピュータ)と呼ばれる、それまでよりも小型で安価なコンピュータが手に入るようになって、多くの小規模の企業でも導入が可能となり、身近に使えるようになってきた。その頃から、事務作業において従来からの手作業に固執する保守派と、コンピュータを積極的に導入しようとする革新派に分断されるようになってきた。保守派は従来方式から変えることに対する抵抗感や、ハイテクを理解できない不安でいっぱいであっただろう。

さらに広がってくると

技術はさらに進歩し、一層小型・安価で高性能なコンピュータであるパソコン(パーソナル・コンピュータ)が出現してきた。パソコンの出現によって、専門家でなくても大勢の人がコンピュータを使えるようになったが、それが普及し始めたころから社会の分断はさらに広がったと言える。もうパソコンを使わないと置いてきぼりを食らうというような雰囲気が生まれてきて、否応なしに使い始めた人が増えてきて、母数が大きくなってきたためである。いくら専門家でなくても使えるようになったと言え、何かとやり方がわからない、問題が出た時どう処理してよいかわからないといった不安を持つ人が多かった。そういう人たちは「ITリタラシーが低い」などと揶揄されるようになった。「デジタルデバイド」なる社会現象の出現である。「デジタルデバイド」の勝者側に入れるようにとパソコン教室なるビジネスも流行った。このパソコン教室の出現はこの種の不安がかなり強かったことを映し出していると言えよう。

しかしその後パソコンはさらにユーザーフレンドリーになり、ほとんど何も学ばなくてもすぐに使いこなせるようになり、誰もが使うに近い状態になってきた。コンピュータは文章や表の作成などの業務上の作業のほか、情報の検索や記録、コミュニケーションといった日常生活の道具として使われるようになった。それほどまでにコンピュータが身近な存在になってきて、劣等感の程度も減ってきた。それでもコンピュータ不安を持つ人が皆無ということはないが、それらの人は少数派となり早晩絶滅危惧種に分類されていくであろう。

このようなコンピュータの発達と発展は、我々の行動パターンや生活習慣を大きく変えた。もちろん職種にもよるが、今日オフィス勤務のサラリーマンはほぼ一日中パソコンと向かいあって仕事をしている。パソコンがまだ職場になかった頃は、どのように仕事をしていたか、もう想像さえもつかない状況である。それほどまでに人間社会の中に浸透したコンピュータではあるが、それによって個人的に失職の憂き目に遭った人はいるであろうが、いくつかの職種がまるまるコンピュータに置き換わられて、大量の失業者が社会に溢れたというようなことはなかった。

ではAIの場合は

このようなコンピュータの社会進出の程度に対する社会の反応の歴史を振り返ってみると、今後AIの社会進出によって社会の反応がどのように変化していくかを予測する上で参考になるであろう。

まず現在AIはどの程度社会に浸透しているといえるだろうか。人工知能という言葉は存在したが、専門家以外の人にはほとんど関係のない存在であった時を過ぎ、毎日のように新聞に関係するニュースが載るような時代に入ってきた。しかし、まだそのようなニュースには初めての導入事例が紹介されることが多い程度の浸透具合である。実際に利用した経験のある人はまだ多くないが、一方では良くあるいは正しく理解できない未知のものに対して、近い将来職を失うなどの不安を抱く人も増えてきた時代と言えるのではなかろうか。何をもってAIと呼んでいるのか疑問をもつような広告もままみられるようになってきたのも、コンピュータの時の繰り返しとも言えるだろう。

これはコンピュータでたとえるなら、どこらあたりであろうか。もちろんコンピュータとAIでは市場へのアプローチや技術開発の仕方が異なるので、人によって感じ方は区々ではあろうが、概ね次のような感覚ではなかろうか。
すなわち、つい最近までは「多くの人にとっては全く身近なものでなかった時代(大型コンピュータ時代に相当)を過ぎて、じわじわと社会に浸透してきて未知のものに抱く不安や神話のような感想を持つ人が増えてきた(オフコン時代に近い)時代に入ったものの、多くの中小企業でも導入が可能となり、身近に使えるような(ミニコン時代に近い)時代にはまだ入っていない」の辺りに相当したのではなかろうか。
しかしここ1,2年のAIの発展で、この類推も変わってきたかも知れない。この発展とは生成AIの実用化である。現在のところ生成AIは莫大な投資をしなければ所有することができないような巨大なシステムである。にも関わらず、これが広く実用の道を歩み始めることができたのは、クラウドを利用するからである(クラウドの意味を知るためにはここをクリック)。これによってAIも多くの中小企業でも利用が可能となり、身近に使えるような時代に入りつつあるようになったように思える。さらにパソコン用の身近なソフトと組み合わせて使えるようになるなど、それと気づかぬうちにも、個人レベルでも使えるほど浸透し始める兆しが見えてきた。

もう既に、第1章で御曽崎が考えて並べた身近なAIの例とは、隔世の感がするような気もする今日この頃である。

なお、クラウド利用によるAIの広がりは、先ほどのコンピュータの歴史では言及しなかったが、コンピュータの歴史で言えば、コンピュータのネットワーク化によって、その利用が大きく広がったことに相当すると言えるのではないであろうか。

このように、今のところAIはコンピュータと似た歴史をたどっているように見える。だがはたして、この後もコンピュータの社会進出の度合いに応じて社会に見られた変化は、AIについても繰り返されるのであろうか。紆余曲折はいろいろでてくるであろうが、最終的にはコンピュータの時と同様、すっかり人間社会の中に溶け込んで、大きな混乱もなく共生の社会に移っていくのであろうか。あるいはAIには、コンピュータの歴史からでは社会がこの先どうなって行くかを類推できないような特殊性があるのだろうか。

{ブログの中のナビゲタ}コンピュータの社会進出の度合いに応じて見られた社会変化とは全く異なる変化が予測されるのか、あるいは歴史は再び繰り返されるのか興味津々ですね。それを考えるために、AIに特殊性があるのか、あるとしたらその大きさなどについて考えてみましょう。

AIのどこに特殊性があるか

「AIの登場は産業革命以降の最大の変化を人間の生活にもたらす」という予言がある。もし本当にAIの登場が人間の生活に最大の変化をもたらすならば、AIには何か特殊性があるといえるだろう。ワットによる蒸気機関の発明以降、飛行機の発明、電話の発明など続々とエッポクメーキングな機械の発明は続いた。当初は主として人間の活動の能率向上を目指すためのものであったが、同時に発明当時には予想だにしなかった社会変化も起こしてきた。にもかかわらず、その中で最大の変化をもたらすと予測されるAIは、他の発明とは本質的に何が違うのであろうか。

AIとそれ以外の機械を比べるとなると、あまりに大くくりなので、例外が指摘される可能性もあるが、この両者の本質的な違いは、一義的には肉体的な作業の効率化と、頭脳的作業の効率化の違いにあると言えるだろう。それに対して「いやいやAIの出現の前に、コンピュータの利用は、すでに頭脳的作業の効率化をもたらしていたではないか」、という意見もあるかもしれない。しかしよく考えてみれば、少し前までコンピュータがやってきたのは計算、文書作り、作図、検索などが中心で、これは頭脳的作業とはいえ、実はそれらは、つまるところ主に筆算、筆書き、製図、本を探したりページをめくるなどの手作業部分を置き換えたにすぎなかったとも言える。すなわちコンピュータがもたらしてくれたのも、主に肉体的な作業の効率化であると言える。もっともこれは「肉体的な作業」というよりも、「頭脳労働を力ずく力ずくの作業」というほうが、適切かもしれない。

産業近代史はこの「肉体的な作業の効率化」をどう受け入れていくかの繰り返しであったという側面がある。ダイナマイトをはじめ、原子力利用など必ずしも全ての面で人間がとても良い受け入れ方をしてきたとは言いきれない発明も多々ある。しかしながら、少なくとも変化に対してこれまでどのような手が考えられ、どうような手が打たれ、どのような結果がもたらされたかという知識はたくさん積まれてきた。コンピュータが引き起こした作業効率化も概ね同様である。

それに対してAIは認識、分析、判断、作文など、「頭脳労働を伴った力ずくの作業」ではない純粋な頭脳的作業も実行してくれる。この頭脳的作業に入り込むというところに、コンピュータも含めた他の機械の発展の時とは異なる要因が潜みそうである。しかもこれまで人間は「純粋な頭脳的作業の効率化」を受け入れていくという経験をほとんどしていない。そこに、AIの場合の特殊性が存在しうると思われる。


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